裁判をする意義

元妻とその再婚相手が、
半年間にわたって面会交流を妨害したことを訴えた訴訟の
今日は東京高裁での控訴審判決でした。
結果は一部勝訴の原審維持の判決でした。

細かい点では不満もありますし、
養育妨害をするにおいて、養子縁組の違法性や、
裁判不出廷による妨害の違法性が認められず、
この点では目標としていたところには届きませんでしたが、
2度の面会交流の妨害についての損害賠償20万円は認められました。
交流妨害の不履行に悩む人にとっては朗報です。

応援、ご支援のほど、ありがとうございました。

こういった裁判をすると「子どもの問題をお金で決着するのか」
「お母さんからお金をとるなんて、と子どもに言われる」
と批判されることもあります。
臨床心理士の故棚瀬一代さんなんかも、そういうことを本で書いていたりするので
別居親の中にもそういう意見を表明する人もいます。
たしかに、なんでもかんでも裁判で決着をつけるのは、
自分たちで本来解決すべきことを国家権力に決めさせるという点では、
避けられれば避けられるに越したことがありません。

しかし、裁判というのは、本来泣き寝入りしそうになった人のための
救済の制度ですし、多数決や力の大きさ、声の大きさによらず、
公正さという点で、正当性を主張することができ、
がんばれば得るものも得られる場でもあります。
現在の制度において、不法行為の損害を回復するには、
裁判制度上、お金をとる、という手段しかないわけですし、
それで子どもが「ママ(パパ)からお金をとってきたパパ(ママ)」と言うなら、
そのように子どもに教える大人の責任は大きいでしょう。

そうではなくて、裁判で違法性が認められるということは、
子どもが離れて暮らすパパやママを慕う感情や、会いたいという感情について、
「あなたがそう思う気持ちは間違っていないよ」と社会が認め、
そう子どもにメッセージを送ることができるという点で、大きな応援になるし、
やがて子どもが勇気を出して、「パパ(ママ)に会いたい」と
言うことができるようになるための、大きな拠りどころにきっとなるでしょう。
あなたの味方はほかにもたくさんいる、と思えるわけです。

そういう意味で、裁判に訴えてまで、子どもの気持ちにこたえたい、
と思う、パパやママが出てきたとき、それを「金の問題にして」と
貶めることは、自分で自分の子どもの首を絞める行為とも言えます。

なんて、ぼくが言うのはなんですが、ひとまずやれやれです。
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写真は立川地裁での一部勝訴判決後に撮影。支援者とともに。

この記事へのコメント

  • taro

    おめでとうございます。
    お金の問題で無いことは、お子さんがいずれ自分で判断できるようになったときにわかることと思います。
    自分に会いたくて必死になっていたことは、いつかきっと感謝されるはずです。
    2016年02月27日 12:49
  • あおやぎ君

    ありがとうございます。
    母親からお金をとると子どもの生活が、と
    弁護士の中では心配する人もいたりします。
    それはちょっと違って、親に会わせられないような
    方が養育するのは子どものためにならないのだから、
    養育権者を変えればいいだけの話です。
    やってみてはじめていろんなこと考えますよね。
    2016年02月28日 08:49