1月30日に、広島に呼ばれてお話をしました。
あちこちに別居親のグループはできるようになってきたのだけれど、
中国地方にはなかったので、電話で問い合わせがきたときには
ちょっと困ったりしていたけれど、状況はこれから改善されていくかもしれません。
今回の集まりを企画された方も、ご他聞に漏れず、
子どものことを考えてあれこれやったり譲ったりしたら、
結局会えなくなったというよくあるパターンでした。
それでも面会交流の不履行について間接強制を申し立て、
中学生のお子さんについても、それが認められるという判例を勝ち取った方です。
子どもが中学生にもなると、子どもが会いたくないと言うのがそのまま
認められがちだったので、こういう形で、子どもに親を捨てさせる
ことが一つ一つできなくなっていくという意義は大きいです。
でも、直面する面会交流について再び家裁に行くべきか否か、
ということで悩んでいたので、ぼくは家裁ではなく地裁に行く、
というのが最近の流れということを言っておきました。
昨日、ブログに書いた、「裁判」というのも、
民事訴訟のことで、家事審判のことを言っているのではありません。
一般に、家庭裁判所というのは、子どもの福祉のための場所ではなく、
単独親権を当事者に押し付ける場なので、そこに長く通ったり、
何度も通って、ドツボにはまる人は少なくありません。
家裁にかかっているうちに、面会交流を実現させるという戦略でもない限り、
むやみやたらと家裁に行って、かえって会えなくなるということも少なからずあります。
しかし、何らかの取り決めがある場合、
その不履行については、むしろ地裁で違法性をまず認めさせ、
それでもって、履行を促すだけでなく、「違法なことをしているのは相手」
という決定でもって、家裁での足して二で割るような決定を出させるのを防ぐ、
というのが戦略的に有効な場合があります。
違法行為は別居親の養育妨害にほかなりませんから、
妨害をさらに家裁で追認させるということを家裁はしにくくなるという構造です。
残念なことに、取り決め前の別居親の養育権は、まだ実態的な権利として
裁判所は認めていませんから、ここをどう認めさせていくかが、
これからの別居親たちの課題です。
加除出版の『子ども中心の面会交流』は
こういった権利義務にのっとった、親子関係のあり方について
地裁ではなくやっぱり家裁、と強調することで、
同居親の拒否感情を優先してきた家裁のやり方に引き戻す、という狙いがありました。
その意味ではバックラッシュにほかなりません。
法律家の間でも、子どもを無理やり会わせるのはかわいそう、という根強い発想があります。
しかし、子どもに会いたくないと言わせて、親を捨てさせるとしたらそのほうがさらに残酷です。
裁判はたしかにお互いが主張を闘わせますから緊張が高まり、
そのことで面会交流に影響が出ることはあるでしょう。
しかし、それでも、ひるまずに、親としての権利を勝ち取ることが、
ひいては子どもの権利を確保することにつながり、
親との関係を自分の意向の表明とは関係なく継続してできることになるとしたら、
そこではじめて子どもは安心して「会いたくない」も「パパ嫌だ」も
言えるというわけです。
そのためには、心を鬼にする必要はなく、
自身が負っている損害の補償をきちんと加害者にあがなわせ、
いけないことはいけない、自分の感情でいじわるをすることは、
たとえ家族や元夫、子どもの親という関係であっても許されない、
世の中のルールは家族関係であっても守らなければならない、
ということをきちんと子どもに教える必要があるのではないでしょうか。
それも親としての仕事にほかならない、とぼくは思います。
写真は養蚕家のおじいさんと。本文とはちっとも関係ありません。
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