別居親たちの間で聞くことがままにある。
「会えてればいいよ」という感覚も、わからないでもない。
でも、子どもの側から見た場合、これはどうなのかな、と
いろいろ親たちの話を聞いたり、自分の経験も踏まえて思うようになった。
実際、「一目会う」というのは、相手が行方不明になり、
子どもが名前も変えていた場合には、とても困難で、
オノ・ヨーコなんかは娘のキョーコを公開で探しまくり、
最終的に「Don't worry Kyoko」という歌まで作っているわけだから、
それなりに難しい人はいる。
一方で、子どもがどこに住んでいるかがわかっている場合、
「一目会いたい」は、見ればいいので、どこかで待ち構えるか、
遠目で見ればその願い自体は解決する。
しかし、調停を起こして、子どもに会おうとして、
「一目会いたい」と言って、調停委員が同情したとして、
子どもに聞いてみたら「会いたくない」と言われたとする。
また、何とか段取りを取ってもらって、子どもに会ってみたら
「もう会いたくない」と言われたとする。
もしそれで一目会ったからもういい、子どももそう言うことだし、
と二度と会わなくなるとしたら、子どもはどう思うだろうか。
「やっぱりね」と思わないだろうか。
本当に子どもに会うのが難しい場合や、
相手の仕返しが激しい場合に、「一目会いたい」と思う気持ちは普通だし、
親が会いたいと思わなければ、子どもが親から見守られるという権利自体も保障しえない。
でも、親は会えばすむというものじゃないし、子をなしたわけだから、
後は知らない、というわけにもいかないだろう。
もしそうなら、子どももそういう親の姿を見て大人になることになる。
「会いたくない」も「パパ嫌い」もそりゃあ言うけど、
自分が会えなかったからといって、それで子どもを育てることもしなくていいとしたら、
そんな寂しい親子関係を作るために支援するのはそれもまた寂しい。
そもそも、会えなかったからと言って、「一目」で子どもを諦める必要も
最初からないのだ。
一目が二目になって、何度も積み重ねていけば、
それは子育てしているということになるよ。
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