映画「レッド・ピル」
年末に映画「レッド・ピル」のクラウド・ファンディングをした。
この映画はアメリカの男性の権利運動の映画で、もともとフェミニストだった監督が男性の権利運動の活動家にインタビューを重ねていく。その過程で、彼女は女性だけでなく男性もまた社会の中で割を食っていると、気づいていく。
この映画はオーストラリアでは反対に遭って上映館がいったん上映禁止措置をとったといういわくつきのものだ。今、翻訳作業を進めていて、大鹿村のイギリス出身の翻訳家のところにせっせと通って字幕を作っている。
翻訳を進めていく過程で男性運動とフェミニズムの議論の焦点が、だんだん理解できるようになった。監督は女性だし、もともとセクシャリティーの問題を課題にしてきた方ということもあって、男性の権利運動の側も、フェミニズムの側も、それなりに同じ論点についてそれぞれ意見を紹介している。
映画ではアメリカで90年代にベストセラーになりながら、日本では20年来無視されてきた『男性権力の神話』を書いた、ウォレン・ファーレルも登場して自分の体験を語っている。ニューヨーク大学にいたときに、リブの運動が起きて興奮したファーレルは、男性の側の声を聞けば理解がもっと深まると思って発言しはじめたという。そのとたんに、称賛を得られなくなり、大学の講演から干された。
男女ともどもに、性役割からくる悩みやしんどさはあるに違いない。どっちのほうがしんどいとか言ってもしかたなくて、個々人が抱える問題の深刻さに序列はつけられない。しかしながら、男性の側が抱える問題を社会問題として告発することに対する拒否反応は、フェミニストと問題を共有しようと話したりする中で、一度ならずぼくも経験したことだ。「男女平等と言っててそれか」というフェミニズムへの反発は共通のものだったのか、ファンディングは目標額を20万も上回り、50万円が集まった。
最近、とんでもない家庭裁判所の裁判官の言動を記事するという活動を再開し、「家庭裁判所チェック」というブログに紹介している。仲間の一人が、家裁で婚姻費用を、子どもを連れ去った妻に請求したというので、それを紹介した。
婚費は協力して婚姻を維持するための費用なのに、子どもを連れ去って離婚を求めている妻が、ショックで失業した男性に請求してくることがある。それは認められる。しかし実際は支払えない。だから婚姻を維持する意思のある「追い出し離婚」(連れ去り)の被害者の無職の夫が、パートをする妻に請求するのは正しい法の使い方だと思う。
しかし裁判官は「男からの請求なんて聞いたことがない」と小馬鹿にして取り合わない。男性の側を被害者とすることへの感情的な反発があるからだ。もちろん、被害者というからには加害者がいる。
最近本を出したので、売り込みに旧知の新聞社の記者に電話したら、「宗像さん、裁判所でものすごく嫌われてますよ」と言われた。「裁判官を評価するじゃないですか。戦々恐々としているみたいですよ」と説明された。「宗像さんたちの運動を取り上げると、右からも左からも批判される」という。暗殺指令出されるくらい、ぼくもがんばんないと。
でっち上げが記事になる
そんなわけで、DVのでっち上げや実施誘拐犯罪の告発を続けているぼくたちの活動は、ある時期からマスコミでは非公然活動になっている。
先日、珍しくアエラが連れ去り、でっち上げDVについて記事にしているのをネットで見つけた。引き離しの問題に取り組む、ぼくも知ってる女性弁護士が「でっち上げは許されない」とコメントしているのが記事になっていて、お、やるじゃんと思って読み進んでいたら、最終的に共同養育相談をしている女性が、「内省し妻の気持ちを考えられる人と、争って権利を主張しようとする人では」結果が違うとコメントしていて、ガックシきた。
親子関係を取り戻すのは権利の「主張」ではなく「回復」だ。連れ去りって引き離すのが問題のときに、振られた男に説教する恋愛術みたいな、どんなでも当たる占い調の話をしてどうするよ。子どもに会いたい親に弱みがあるからこそ入り込める商売で、社会病理が永続化しないと成り立たないし、もちろん社会構造の問題を否定する。
その後、子どもに会わせたら子どもが殺された事件があったと、死人に口なしで男への敵視発言をすれば女性に受けると思っているだけの、いつものダサい学者がコメントしていてさらにガックシ度が高まった。
だったら、子どもを産んだら施設に預ける立法活動をその学者さんと主張したらどうですか、とアエラに電話して「そこに差別がありますよね」と記事を作った記者さんにくぎを刺しておいた。「ぼくだったら連れ去られたら被害届出してくださいと言いますよ」と。比較する対象は「ひとり親」ではなくふたり親家庭じゃないとフェアじゃない。シングルマザーが「ひとり親」ならぼくたちもだからだ。
Me Too
最近、そういう告発運動が大賑わいだ。いい悪いは別にして、そういう運動が起きる基盤はあるんだろう。ただ、これで女性への性犯罪の厳罰化が進めば、行きつく果ては予想できる。振られた腹いせや不愉快に感じたことに対して、「セクハラされた」と女性が告発することで、「でっち上げ」の被害に遭い人生を壊される男性は増え、それが放置されれば女性を敵視する男性は増える。
セクハラもまた、DVと同様に主観的なものだから、愛情表現と言い寄ること、セクハラの間に線を引くことは個別の関係による。それを他人が「犯罪」と烙印を押すことに「魔女狩り」とフランスの女優が反発するのもよくわかる。
何よりこの運動が、女性からの一方的な主張のみが対象とされるに留まっていることがぼくから見ると危うい。ぼくも路上で通りすがりに女性に股間を触られたことはあるし、電話に出ないことの腹いせで女性に「DVだ」と警察を呼ばれたことはある。これらは性犯罪に違いないが、me tooと言うことに「男らしくない」から言わない男は大勢いるだろう。
子どもの連れ去り問題についても同じことが言える。
一方の親の同意のないものを「子の連れ去り」と呼ぶが、同意してなくても子どものことを当初主張しない男性はいる。誰しも話せばわかると思うし家族を修復させようとまず思う。もちろん自分にも反省点があるくらい思う人はいる。だけど子どもを会わせない、となると「それはないだろう」と理不尽さを徐々に認識してくるのだ。その時点で「会えない」ことは被害となる。したがって「思ったら連れ去り」だ。
被害者が自分を回復させる手段に「告発する」ということがあるなら、被害届を出すのもまた権利だ。よく、「最初の連れ去りはよくて二回目はダメなんておかしい」と実子誘拐の適用の不平等について別居親たちは指摘する。その指摘は間違いではないが、むしろ女性を連れ去りの加害者とすることに対する拒否反応を理解しなければ、一面的だと言えるだろう。
共同親権運動は、別居親子による公民権運動だ。特定の社会グループの構成員への犯罪行為が不当に軽視され、加害者への犯罪の適用を免れさせる(不当に刑が軽いか刑が問われない)ことは、差別の存在を指摘しやすい事例だ。
(宗像充、「府中萬歩記」47号より)
年末に映画「レッド・ピル」のクラウド・ファンディングをした。
この映画はアメリカの男性の権利運動の映画で、もともとフェミニストだった監督が男性の権利運動の活動家にインタビューを重ねていく。その過程で、彼女は女性だけでなく男性もまた社会の中で割を食っていると、気づいていく。
この映画はオーストラリアでは反対に遭って上映館がいったん上映禁止措置をとったといういわくつきのものだ。今、翻訳作業を進めていて、大鹿村のイギリス出身の翻訳家のところにせっせと通って字幕を作っている。
翻訳を進めていく過程で男性運動とフェミニズムの議論の焦点が、だんだん理解できるようになった。監督は女性だし、もともとセクシャリティーの問題を課題にしてきた方ということもあって、男性の権利運動の側も、フェミニズムの側も、それなりに同じ論点についてそれぞれ意見を紹介している。
映画ではアメリカで90年代にベストセラーになりながら、日本では20年来無視されてきた『男性権力の神話』を書いた、ウォレン・ファーレルも登場して自分の体験を語っている。ニューヨーク大学にいたときに、リブの運動が起きて興奮したファーレルは、男性の側の声を聞けば理解がもっと深まると思って発言しはじめたという。そのとたんに、称賛を得られなくなり、大学の講演から干された。
男女ともどもに、性役割からくる悩みやしんどさはあるに違いない。どっちのほうがしんどいとか言ってもしかたなくて、個々人が抱える問題の深刻さに序列はつけられない。しかしながら、男性の側が抱える問題を社会問題として告発することに対する拒否反応は、フェミニストと問題を共有しようと話したりする中で、一度ならずぼくも経験したことだ。「男女平等と言っててそれか」というフェミニズムへの反発は共通のものだったのか、ファンディングは目標額を20万も上回り、50万円が集まった。
最近、とんでもない家庭裁判所の裁判官の言動を記事するという活動を再開し、「家庭裁判所チェック」というブログに紹介している。仲間の一人が、家裁で婚姻費用を、子どもを連れ去った妻に請求したというので、それを紹介した。
婚費は協力して婚姻を維持するための費用なのに、子どもを連れ去って離婚を求めている妻が、ショックで失業した男性に請求してくることがある。それは認められる。しかし実際は支払えない。だから婚姻を維持する意思のある「追い出し離婚」(連れ去り)の被害者の無職の夫が、パートをする妻に請求するのは正しい法の使い方だと思う。
しかし裁判官は「男からの請求なんて聞いたことがない」と小馬鹿にして取り合わない。男性の側を被害者とすることへの感情的な反発があるからだ。もちろん、被害者というからには加害者がいる。
最近本を出したので、売り込みに旧知の新聞社の記者に電話したら、「宗像さん、裁判所でものすごく嫌われてますよ」と言われた。「裁判官を評価するじゃないですか。戦々恐々としているみたいですよ」と説明された。「宗像さんたちの運動を取り上げると、右からも左からも批判される」という。暗殺指令出されるくらい、ぼくもがんばんないと。
でっち上げが記事になる
そんなわけで、DVのでっち上げや実施誘拐犯罪の告発を続けているぼくたちの活動は、ある時期からマスコミでは非公然活動になっている。
先日、珍しくアエラが連れ去り、でっち上げDVについて記事にしているのをネットで見つけた。引き離しの問題に取り組む、ぼくも知ってる女性弁護士が「でっち上げは許されない」とコメントしているのが記事になっていて、お、やるじゃんと思って読み進んでいたら、最終的に共同養育相談をしている女性が、「内省し妻の気持ちを考えられる人と、争って権利を主張しようとする人では」結果が違うとコメントしていて、ガックシきた。
親子関係を取り戻すのは権利の「主張」ではなく「回復」だ。連れ去りって引き離すのが問題のときに、振られた男に説教する恋愛術みたいな、どんなでも当たる占い調の話をしてどうするよ。子どもに会いたい親に弱みがあるからこそ入り込める商売で、社会病理が永続化しないと成り立たないし、もちろん社会構造の問題を否定する。
その後、子どもに会わせたら子どもが殺された事件があったと、死人に口なしで男への敵視発言をすれば女性に受けると思っているだけの、いつものダサい学者がコメントしていてさらにガックシ度が高まった。
だったら、子どもを産んだら施設に預ける立法活動をその学者さんと主張したらどうですか、とアエラに電話して「そこに差別がありますよね」と記事を作った記者さんにくぎを刺しておいた。「ぼくだったら連れ去られたら被害届出してくださいと言いますよ」と。比較する対象は「ひとり親」ではなくふたり親家庭じゃないとフェアじゃない。シングルマザーが「ひとり親」ならぼくたちもだからだ。
Me Too
最近、そういう告発運動が大賑わいだ。いい悪いは別にして、そういう運動が起きる基盤はあるんだろう。ただ、これで女性への性犯罪の厳罰化が進めば、行きつく果ては予想できる。振られた腹いせや不愉快に感じたことに対して、「セクハラされた」と女性が告発することで、「でっち上げ」の被害に遭い人生を壊される男性は増え、それが放置されれば女性を敵視する男性は増える。
セクハラもまた、DVと同様に主観的なものだから、愛情表現と言い寄ること、セクハラの間に線を引くことは個別の関係による。それを他人が「犯罪」と烙印を押すことに「魔女狩り」とフランスの女優が反発するのもよくわかる。
何よりこの運動が、女性からの一方的な主張のみが対象とされるに留まっていることがぼくから見ると危うい。ぼくも路上で通りすがりに女性に股間を触られたことはあるし、電話に出ないことの腹いせで女性に「DVだ」と警察を呼ばれたことはある。これらは性犯罪に違いないが、me tooと言うことに「男らしくない」から言わない男は大勢いるだろう。
子どもの連れ去り問題についても同じことが言える。
一方の親の同意のないものを「子の連れ去り」と呼ぶが、同意してなくても子どものことを当初主張しない男性はいる。誰しも話せばわかると思うし家族を修復させようとまず思う。もちろん自分にも反省点があるくらい思う人はいる。だけど子どもを会わせない、となると「それはないだろう」と理不尽さを徐々に認識してくるのだ。その時点で「会えない」ことは被害となる。したがって「思ったら連れ去り」だ。
被害者が自分を回復させる手段に「告発する」ということがあるなら、被害届を出すのもまた権利だ。よく、「最初の連れ去りはよくて二回目はダメなんておかしい」と実子誘拐の適用の不平等について別居親たちは指摘する。その指摘は間違いではないが、むしろ女性を連れ去りの加害者とすることに対する拒否反応を理解しなければ、一面的だと言えるだろう。
共同親権運動は、別居親子による公民権運動だ。特定の社会グループの構成員への犯罪行為が不当に軽視され、加害者への犯罪の適用を免れさせる(不当に刑が軽いか刑が問われない)ことは、差別の存在を指摘しやすい事例だ。
(宗像充、「府中萬歩記」47号より)
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