選択的共同親権は意味がない

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 先日、某大手新聞社からkネットに別居親当事者を紹介してもらえないかと取材依頼のメールが入った。これまで当事者を紹介してほしいという連絡は度々あったが、いきなりメールで依頼するということはなかったので、メールにあった携帯番号に電話をした。というのは、当事者の実情を広く知ってほしいという思いはあっても、別居親への偏見もある中、紹介した当事者が傷つくような安直な両論併記の記事になることがあるからだ。

よくあるのは、会えないのはかわいそうだと当事者の話を紹介しておきながら、DVの場合もある、とその後で「識者」のコメントを載せたりする場合だ。こうなると、会えないのはその人がDVだからと暗にほのめかしているようにも読み取れる。こういう金太郎飴のような、記者の悩みのかけらも感じられないイージーな記事が、大手紙には実に多い。

さて、新聞社に企画の趣旨について聞くと、目黒区の虐待死事件で亡くなった子どもが「前のパパがいい」と言っていたというので、共同親権について取りあげたいとのことだった。この事件はkネットでも声明を出している。父親の関与がないところで養父と母親が起こした事件なので、新聞社の目の付けどころは間違ってはいない。一方で、ぼくたちが出した声明を読んでいるのかと聞くと、そうではなかった。

当事者を紹介することで、その人にかわいそうな思いをさせることはないのか、と不安を記者に尋ねると、「新聞社なので両論併記をしないとならない」とやっぱりきた。これは嘘だ。新聞社は賛否があるのが予想できる場合だけ両論併記をしているだけで、解説記事でも一方的な記事を書く場合は普通にある。

「DVなどの場合は単独親権にして引き離せるので、共同親権でも選択的共同親権がいいのではと専門家が言っていることもあります」とすらすらと続く。「単独親権だと暴力が防げるなんて、現場を見ているとまったく実感が湧かないんですが、DV防止ならDV防止の側面から議論しないと、違う問題のものをいっしょに議論してもかみ合いませんよ。それに選択的って言ったって、子どもに会えないのにどう選択するんですか」と聞くと、「それではけっこうです」と話を打ち切った。

自分で頼んでおいてずいぶんな態度なので、「あの、親子を引き離すことが人権問題だと理解していただいているんならいくらでも協力しますが、単に政策論の材料に取りあげるだけなら紹介した人がかわいそうでしょう」と言うと、「もちろん人権の観点から企画を考えましたが、そちらの言い分について紙面にすることは保障できませんので、けっこうです」と不機嫌な声で話を打ち切った。

こちらは何も主張していないのだけど、つまり図星だったわけだ。ぼくも同業者なので、こういう適当な仕事をして取材先に感情をぶつける記者を見ると、その殿様商売ぶりに怒りが湧く。

それはさておき、この記者も言っているように、専門家の間ではDVの場合もあるので、選択的共同親権がいいんじゃないかという意見が度々出る。当事者の間には間に受けて、選択できるんだったらいいんじゃないかと賛成する人もいる。

しかしよくよく考えてみてほしい。

子どもを連れ去った親が親権をもう一方の親にやるかどうかの選択はできても、連れ去られて会えなくなっている側が、どう自分の親権を維持して共同親権にする選択ができるだろう。結局、連れ去られた後、子どもに会いたかったら親権を手放して離婚するようにと言われてしまえば、共同親権の選択はなくなる。連れ去った後にDVの「おそれ」を主張して、「おそれ」があれば単独親権を選択ができるのは、もちろん連れ去った側と裁判所である。子どもが「会いたくない」と言った場合のみ「選択」を押しつけるのは、親の果たすべき責任を子どもにさせるという面で児童虐待だ。

「選択的」というのは、子どもの養育放棄という面でも問題がある。未婚の母が認知を相手に求めて、相手が親権を選択できるとなると、責任放棄のお墨付きを与えかねない。実際、単独親権の「選択」、母親の再婚の「選択」、そして子どもは再婚相手との共同親権という「選択」といった、数々の「選択」の末に目黒の虐待死があったとするなら、虐待防止に何の効果もない。女性の側の選択権のみを認めるという法の構成は十分ありうるが、だったらそもそも「選択的」など最初からインチキだ。

記者も言ったように、選択的共同親権がDV防止に役立つとまじめに思っている人もいる。しかしながら、DV防止法がDVが起きた後の事後処理の法律であるように、単独親権が「選択」としてあれば暴力が防げると思っているとしたら、正直バカだとしか言いようがない。法律に「DVはよくない」「単独親権だから子どもと接触するな」と書いていればみんなが守る、といったような幼稚な発想で人間を見ているとしたら、自分の専門以外にほかにも勉強するものがあるだろう。

家族の孤立、特に離婚家庭が「ひとり親」と別居親に分断する過程に、戸籍と単独親権が強力に作用しているのは否定しようがないことである。しかしながら、目黒区で虐待死した子どもが「前のパパがいい」と言ったからといって、親子断絶防止法を今推進することは一層意味がない。

数年来、共同親権運動の足を引っ張り続けている親子断絶防止法は、つまるところDV、虐待の「訴えがあった場合」についての引き離しを法で正当化する。そして「会えない」という既成事実に抵抗する親に、裁判所がペナルティーを課すことを容易にする。これもいったん子どもと引き離された別居親にはけしてできない「選択」という発想の延長である。つまり別居親への弾圧が「選択」という言葉で正当化される。

この法律が実際には親子断絶を推進するものであるということを置いておいても、親権停止の民法改正と民法766条における面会交流の明文化が、虐待防止の側面からもなされた経緯があったことからすれば、引き離し運動が根強くある中、同様の法律を焼き直したところで効果がないのは目に見えている。

つまり、民法766条の改正だけでは足りず、この条文の改正の目的を生かすために、引き離しを進める裁判所の運用の是正をこそ求めなければならない。そして家族の孤立と虐待防止法のための改正を促すのであれば、断絶促進を促すだけの共同養育支援促進法(実際は引き離し利権擁護法)ではなく、連れ去り・引き離しを違法化し、同時に戸籍と単独親権の撤廃を目指して、原則的な共同親権の民法改正の議論を今始めるしかない。法律を変えるのは時間がかかるなどという議論は、問題の先送りにしかならない。

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