共同親権運動とは何か

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 先日、京都に映画「レッドピル」を見に行ったときに、懇親会で親子断絶防止法(共同養育支援法)について話題にすることになった。そのとき、関西の当事者は「この法律ができるかポシャるか、とにかくこれが決着つかないと運動進みませんよね」とぼくに話しかけてきた。

ぼくがこの法律に反対しているのを知っているので、意見を聞いてきたということだろう。この法律について当事者間では議論を避けたがる傾向にあるようだ。この法律は「DVのおそれ」や特に「子どもの意思」の悪用によって引き離しを正当化することが可能にするものだ。散々親子関係を疎外されてきたので、こういった法律ができればいったい何のために声を上げてきたのだという思いがある。

実際問題法律ができれば法律の条文は自分も含めて多くの親子関係・家族関係、そして援助の現場を混乱に陥れるだろうと予想もつく。しかし、それに対して危機感が共有されないのは、このことについて議論すれば当事者間で白い目で見られるというおそれがあるからだというのは検討がつく。また先日、「実際うちの場合は会えているので影響しませんし」という別居親の一人と話す機会もあり、その正直ぶりにちょっと驚いた。多分そういう人は、法案の例外規定を行政やらが取り入れていったときや自分の子どもが、親として将来引き離されたとき、後悔することだろう。

例外には目をつぶり、両親による関与を明文化することによって、それを前進と捉える発想そのものは、当事者を客扱いしている議員や支援者、学者、メディアなどにとっては何の疑いもないものである。しかし、他人の状況がかりに好転することがあれば、自分の場合で引き離されることは受け入れられる、という「物分かりのいい」、つまり権力者にとって都合のいい当事者がどの程度いるのだろう。立法についての議論の混乱は、こういった当事者主権をどう確立するか、という根本命題と密接にかかわっている。


別居親による立法活動のあらましを振り返れば、こういった上からの立法活動と草の根の当事者主権確立の運動との闘いの歴史だったということもできる。

ぼくが子どもと引き離されたのは2007年だが、その翌年には国立市に仲間と陳情を出して同時に当事者として記者会見でカミングアウトして運動を活性化させた。そのころは面接交流ネットやファーザーズウェブサイトによる議員ロビーがはじめられた後ぐらいで、当事者の自助グループにくるとそういう署名が回ってきたりもした。

国会ではWinkとファーザーズがいっしょになって作った面接交渉連絡協議会というのがあって、同居親の一人がしきっていた。結局院内だけでの活動に世論の追い風はなく、彼等自身も運動の経験もさしてなかったので行き詰って雲散霧消したのだが、そのころぼくたちは国立での成功をもとに全国連絡会を作ろうと、親子ネットを作った。2018年のことだ。

ぼくたちが議員と勉強会を始めたりすると、主導権をめぐって早速足の引っ張り合いが始まり、そのあおりで親子ネット内部の意思決定がままならなくなった。運動の原則を探ったり、他の運動との関係を見ながら、信頼関係を徐々に築いていこうとする自分のようなやり方は、成果を焦る他の当事者にとっては目障りに映ったようだ。政治の優先順位から見て、明日にでも法律が変わる(夜が明ける)という期待は今と同じでまったく根拠を感じられなかったが、このままでは運動自体ができなくなると翌2009年に作ったのがkネットだ。

共同親権運動という言葉もそのときに作り、家族関係の障害を取り除くにおいて、子育てにおける格差解消(実質平等)を掲げた。そのときは性中立的に言葉を選んだが、今男性の権利運動の映画を見たりすると、結局性差別の問題として引き離し問題を捉えていたことがよくわかる。したがって、男性であれば、自分たちの問題を言うために、女子どもを前面に立てるというやり方自体が、今考えればジェンダーバイアスを前提に運動を組み立てていたということになり、実際、性別役割分業の犠牲者でもある別居親たちにとっては矛盾をはらんでいるものだ。

そういった観点があるのかないのかが、親子ネットとkネットの違いでもある。性差別をもとに築かれた戸籍制度(家制度)の桎梏とともに、ぼくや仲間の中でもそういった観点は徐々に認識されていったものだ。当然にして、現在においても次々に新たにぼくたちのところにやってくる当事者の中で、そういった認識はすぐには共有されない。

しかし、「新たに入ってくる人にとっては、親子ネットだろうがkネットだろうが関係ない」「難しい議論はわからない」と言って、だからそれぞれが言っている主張など大差ないという人には、そういう主張はkネットがなぜあるのかという存在意義にかかわるので、もしそういう主張をしたいなら、親子ネットにいってやるか、別のところで自分でそう主張してくれ、という結論にしかならない。これはぼくの感情以前の論理的帰結だ。悲しい現実だが、自覚の有無にかかわらず、それは破壊活動になっている。

「同じ当事者なのに」という嘆きもあまり意味がない。当事者であっても権力を握れば支配者になるし、そうなりたがる人もいる。議員と知り合いになって有頂天になり、他の当事者にも「お前も同じようになりたかったら言うことを聞け」という人がいるのはわかるが、そうなりたくない人もいる。世の中を動かすのは、そこらへんにいる人たちなんだと思っている自分のような人と、政治家になる、あるいは政治家に言い分を聞いてもらわなければ意味がないと思っている人との違いのようなものだ。こういった認識の差は、経験の差であるので、自分の経験を他人に強要しても仕方ない。しかしどちらの側に立つかは、当事者主権の議論ともかかわる。当然にして前者にそのような発想はない。


話がそれたが、その後も共同養育法案(棚瀬法案)をめぐる立法活動や、それがやはり行き詰った後の親子断絶防止法をめぐる議論の中で、こういった主張や手法の違いは場面場面で現れている。議員や専門家などの権力者に依存して代弁してもらう限りにおいては、常にその人たちの利害に左右されるし、その利害に抵触すれば主張そのものも取り下げる結果になるのは、親子断絶防止法の顛末がよく差し示しているだろう。

その中でも成功したのは民法766条の改正だが、これは権力者にとってもいずれはということでプログラミングされていたもので、この程度ならと受け入れ可能なものだったからだ。しかしこの立法活動の中でぼくたちが手にした「原則交流」という原則は、その後の当事者運動の中で力を持っている。

逆行する立法案なら白紙に戻せとぼくが主張しているのは、この「原則交流」という原則が、かなりの脅威を権力者たちに与えているという手ごたえがあるからだ。逆に言えば、現在の親子断絶防止法案への当初の抵抗は、「原則交流」へのバックラッシュを目的としている。したがって、すでにそれに屈した法案自体、引き離しという差別の解消や、「実質平等」を掲げる共同親権運動に敵対するものだ。もっと言えば、権力者を資する、つまり既得権益(引き離し利権)を擁護するものとなっている。

結論から言えば、「この法案ができる」という結論自体は、多くの家族関係を混乱に陥れることになるし、共同親権運動自体の足かせとなる。したがって、「ポシャる」という結論を出すことが多くの当事者にとって一刻も早く待たれることである。

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