ぼくは2007年に元妻から出された人身保護請求によって子どもと引き離された。当時彼女とは事実婚(法的には未婚)だったため、民法上親権は女性の彼女にあり、それを根拠にぼくが子どもたちを拘束しているとされた。引き渡したときに子どもには「会わせる」との約束があったけれど守られず、その結果10年の間に5回裁判をすることになった。
この国では親の別れが親子の別れに直結する。子どもと離れて暮らす親が子どもに会いたいと言えば、「ワガママ」「権利ばかり主張して」と罵声を浴びせられてきた。それだけならともかく、「加害者」「DV男」「子どもに執着している」……ぼくたちが声を上げたときに投げかけられた言葉には果てしがない。
10年前の2008年に、当時住んでいた国立市の議会に離婚後の親子交流の法制化の陳情を出したことでぼくは運動を始めた。当時は「シングルマザー」という言葉はあっても、「別居親」という言葉はなかった。子どもと離れて暮らす親は、親というより「シングル」とみなされていたのだ。
しかし、離婚時に親権をどちらか一方の親に決めるという必要性はどの程度あるだろうか。実際には「子どもにとって離婚とは家が二つになること」という当たり前の事実に気づいた海外の国々は、欧米を中心に共同親権へと移行していった。この流れは世界的なもので、中国やお隣の韓国も法制度的には共同親権だ。子どもは両親から生まれる、という事実は、家の都合や親権をめぐる男女の主導権争いを凌駕していったのだろう。いったい何のため、誰のために単独親権制度を守るのだろうか。
運動が無視できない状況になってくると、今度は「問題のある別居親」(週刊金曜日)とぼくたちは呼ばれるようになった。この問題に限って言えば、別居親や、その多くを占める男性に対するヘイトをためらわないのは、むしろ、左派・リベラルである。親権なんか別居親に渡すと、被害者のDVやモラハラの被害が継続するというのだ。しかし、彼らが「被害者」であるのは、子どもを確保しているからである。
男女の親権取得率は女性が8割を占めるが、それは夫婦間に葛藤を生じたときに、相談に行って逃げる場所(多く「シェルター」などが用意される)を用意されているのは女性だけだからだ。そして裁判所は子どもを確保しているほうにまず間違いなく親権を認める。つまり親権目的の子の連れ去り=拉致が生じる。この点から見れば、別居親は被害者である。しかし別居親を批判する側は、これを被害とは認めない。
なぜだろうか。
それは男性が子育てに関わることの権利性を認めないからだ。そうなると、そんなやつらのために法整備を認めるなんてとんでもない、ということになる。「問題がある」のが別居親ではなく、別居親は「問題がなければならない」のだ。原因と結果が倒錯しているように感じるが、そう感じないとしたら、あなたが性別役の罠にどっぷりはまっているからだ。何のために単独親権制度を守るのかと言えば、それは家制度=戸籍である。
ぼくは事実婚という男女のパートナーシップのあり方をとってこうなっているので、親権が欲しいわけではない。しかし、ぼくたちが「親子が親子である」ためには、こういった現在の法制度とそれを支える社会の偏見を取り除くしかなかった。男が仕事しないで子育てできる、そうなれば、男女のパートナーシップのあり方はもっと多様になっていくだろう。
(宗像 充「月刊まなぶ」2019年1月号)
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